源義経
(みなもとのよしつね)

平治元年(1159)〜文治5年(1189)
父・源義朝  母・常磐御前

 
治承四年(1180)8月17日、伊豆・蛭ヶ小島(韮山町)に流されていた源義朝は北条一族の助けを得て伊豆木台・山木兼隆を討った。
 
 つづく石橋山の合戦に敗れて九死に一生を得た義朝は10月20日に東海道・吉原宿の西方の浮島ヶ原に陣を構えた。いったんは房総に逃げたが力をためながら鎌倉を本拠地として西に進出しようと思っていたのである。

 「さる程に、兵衛佐頼朝、鎌倉を立って足柄の山打ち越えて、駿河の国黄瀬川にこそ着き給へ。甲斐・信濃の源氏共馳せ来たってひとつになる。浮嶋が原にて勢揃あり、其の勢廿万騎とぞ記しける」(『平家物語』以下同じ)
「廿万騎」ではなく多くても2千〜3千騎くらいだったのではないか。

 これに対して平維盛・忠度を将としる7万強の平家軍は富士川に布陣した。実際は4百強しかいなかたといわれている。
 
これが有名な「富士川の合戦」の双方の戦力である。

 そして平家の軍勢は水鳥の羽音を源氏の襲撃だとカンちがいして戦わずしてクモの子を散らすように一挙に潰走してしまった。

 頼朝は水鳥に助けられたこの不戦勝で一気に平家打倒の勢いをつけた。

 戦うことなく勝利した頼朝は黄瀬の宿にひとまず軍を返した。三島市と沼津市の境界になっているけ黄瀬川は富士の東をJR御殿場線に沿うようにして流れて狩野川に合流して駿河湾に入る。
 
 頼朝はこの黄瀬川の東にある長沢八幡宮に本営を置いた。

 一方、奥州・平泉(岩手県)で一大勢力を誇っていた藤原秀衡のもとに身を寄せていた義経は兄・頼朝の挙兵を知ると制止する秀衡の手を振り払うようにして黄瀬川まで駆けつけた。

 そして「齢二十余、色白く、せき小さき男の、面魂、眼ざしすぎて見えける」(『源平盛衰記』)義経は「鎌倉殿の見参に」といった。頼朝殿にお会いしたいということだ。

 
 20歳ちょっとくらくらいの得体の知れない色白の小男が大将に会いたいといっても武将達が取りつぐはずもなかった。それに義経は出っ歯だっだからあまり立派な印象をあたえる顔立ちではなかったかもしれない。

 押し問答になりやがて頼朝自身が気がついてようやく面会することになった。

 顔をあわせ膝をつきあわせて話をしてみると血のつながった兄と弟のことだからそれまでの苦労を思いあって2人とも涙を流し、回りにいた者ももらい泣きした。このときは兄の心にも弟の心にもウソ偽りはなかったと思われる。

 ところが2人の間にわずか数年後には決定的な亀裂が入ってしまうのである。この話は政治の非情と人の心の変わりやすさはどうにもならないことを教えてくれる

 その後の義経は一ノ谷の合戦、木曾義仲追討、屋島の合戦、壇ノ浦の合戦とあらゆる戦いに天才を発揮して源氏の世を招来した。

 5年後。

 義経が満福寺(神奈川県鎌倉市腰越)に入ったのは元暦二(1185)5月のことであった。

 壇ノ浦の合戦に大勝した義経は頼朝の命令で捕虜にした平宗盛父子を護送して東に下り5月7日、酒匂(小田原)に到着したときの前もって使者を立てて鎌倉入りすると連絡をとった。

 ところが頼朝の返事は鎌倉のは来なくていいということで平宗盛父子の身柄は北条時政が酒匂まで受け取りにきた。

 義経に宗盛父子を護送してくるようにと命じておきながな鎌倉には入るなといわれた義経は不審の思いと不安を胸にしながら腰越まで進んで満福寺に宿営したのである。

 5月24日、義経は大江広元に宛てて腰越状(弁明書)を送った。

 私、左衛門尉義経はつつしんで申し上げます。私は頼朝の代官として懸命に戦って平家を討伐し、先祖の恥をそそぎ武勇を世に示しました。これは褒められてしかるべきなのに讒言によって叱られる立場におとしいれられたことは残念でなりません。

 さなざまな苦労を重ねて危険な戦争を勝ち抜いてきて朝廷から五位尉に任じられましたがこれはわが源氏の大きな名誉です。私にはまったくの野心はありません。

 それなのに兄・頼朝が会ってくれないのは大変つらいことですという内容の手紙である。広元になんとか兄・頼朝との仲をとりなしてくれないでしょうかと泣きついたのだ。

 「憑むところは他にあらず、ひとえに貴殿(広元)の広大な御慈悲を仰ぐ」という。

 しかし大江広元は義経から送られてきた腰越状を握りつぶしてしまった。この問題に関わりたくないと考えたからである。

 広元は鎌倉幕府きっての頭脳明瞭な知識人であった。知識人で政治家でもあるということはそのまま狡猾で卑怯な生き方をするということでもあるから侠気などとうに棄てていたし、いちはやく義経の政治生命が失われてしまったことを見抜いていたから素知らぬ顔をしたのである。

 そして頼朝の勘気がとけないことを見極めた義経はやむなく京へもどった。このときの義経にとってはそれが最良の選択だった。

 そのあと義経は軍勢一万五千と愛妾・静御前をつれて西に向かったという。摂津・大物ヶ浦(兵庫県尼崎市)から船に分乗して九州へ向かったのである。

 が、海が時化て軍勢はちりぢりになり義経はごく少数の家来と逃亡生活に入った。十津川、比叡山、奈良、興福寺、子供の頃に預けられた鞍馬寺、仁和寺と僧兵が多くしっかりと武装していてだれも手が出せない大寺院を点々としていたらしい。

 らしい、というのは実は京を出てからの義経の正確な動きはわからないからである。

 やがて義経と別れた静御前は吉野で捕まり、親しい関係にあった叔父・行家は和泉のの潜伏先で殺されてしまった。

 このように義経とその一派が各地を逃げまわったり隠れたりすればするほど頼朝には好都合だった。

 義経たちを日本各地に追い回すことが同時に朝廷に頼朝の総追捕使(軍事警察)としての権限と地方官氏の任免権、兵糧米の微収を行なう総地頭の地位にあることを強調し認知させることになったからだ。

 頼朝にとってさらに有り難かったことは義経が山伏姿に身をやつして最終的に奥州・平泉の藤原氏のもとに逃げ込んだことであった。

 奥州はまだ鎌倉幕府の支配下に入っていなかった。藤原氏は「奥州の王」として関東に強大な権勢を誇っていてその十七万の騎馬武者を初めとする。軍兵は精強だと思われていたし黄金の保有高も鎌倉幕府ははるかに及ばなかった。実質的に東北は一つの独立国であったと考えても良い繁栄を見せていたのである。

 その独立国を攻撃できる反逆者・義経を隠匿しているという大義名分を頼朝は手に入れたのだ。

 藤原氏の当主・秀衡は義経を衣川の高館に入れて厚遇した。が、まもなく秀衡が病没すると嫡子の泰衡は衣川を急襲した。

 秀衡は合戦の天才である義経を利用して、あるいは義経と同盟して頼朝と戦って天下を窺おうという知恵もスケールの大きさもなかった。頼朝とことを構える勇気もなかったからみずから義経を始末し、秀衡自身もまもなく叩きつぶされてしまうことになったのである。

 こうして文治五年(1189)5月、奥州・衣川の高館で義経は自刃して31歳の悲劇的な人生を終えた。 



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