源頼朝 (みなもとのよりとも) 久安3年(1147)〜建久10年(1199) 父・源義朝 母・藤原季範の女 |
源頼朝は平治元年(1159)の平治の乱に父・義朝とともに十三歳で初陣の出馬をしたがこの合戦に敗れて逃亡するうちに京へ捕らえられて京へ送り返され伊豆・蛭ヶ小島(静岡県田方郡韮山町)に送られることになった。 蛭ヶ小島は狩野川の中州で頼朝は以後豪族である北条時政や伊藤祐親の監視下で三十四歳まで父や兄弟を弔う読経三昧の暮らしを送ることになった。 といっても狩を楽しんだり遠出したり比較的自由で頼朝はのびのびと育った。 二十五歳のとき事件が起こった。 頼朝は伊藤祐親の三女・八重と恋をして千鶴という男の子が生まれた。祐親が大番(御所警護役)で京都へ行っていた間の出来事で、帰ってこれを知った祐親は激怒して生まれたばかりの千鶴を川に流して殺し八重は伊豆・江間郡(田方郡伊豆長岡町)の領主・江間小四郎へ嫁がせたのである。 祐親は頼朝を追いつめて殺そうとし、頼朝はほうほうの体で北条時政のもとへ逃げ込んだ。時政は頼朝を受け入れたのだが、同じ事件がくりかえされた。時政が大番で京都へ行って留守の間に頼朝は時政の長女・政子と親密になっていたのだ。 時政も激怒して政子を伊豆国目代(代官)山本兼隆に嫁がせた。 しかし政子は先の八重と違って積極的な女性だったようで降りつのる激しい雨をついて伊豆権現(静岡県熱海市)にいた頼朝のもとへと駆けつけた。ときに治承元年(1177)頼朝31歳、政子21歳であった。 三年後の治承四年(1180)四月二十七日、頼朝の叔父である源行家(新宮十郎)が平氏を追討せよという以仁王の令旨をとどけてきた。 と、まもなく源由頼政と以仁王が死んだという情報が届いて頼朝は源氏の御曹司として至急に挙兵しなければならなかった。 その第一の標的はいったんは政子と結婚した伊豆国目代(代官)山本兼隆である。 頼朝、時政は山本館の図面をたくみに入手して土肥実平、岡崎義実、佐々木盛綱などとともに旗揚げを決行した。 以仁王の令旨が届けられて約四ヶ月後の八月十七日子の刻、山本館の家来達が三島大社の察礼に出て守りが手薄になっている隙を突いて時政の軍は「清盛の権をかりて、威を伊豆の郡卿に輝かした」兼隆を討った。 兼隆からすれば理不尽な話である。政子と結婚したのはいいが逃げられて、そのうえ舅だった時政と政子を奪った頼朝に殺されたのだからいい面の皮である。 頼朝はそのまま相模に向かった。 このときはまだ四拾七騎だったが石橋山(神奈川県足柄下郡湯河原町)に着いたときには三百騎になっていたという。 大庭影親のひきいる三千騎が伊豆に向かっていた。 八月二十三日、この三千騎と頼朝の三百騎が石橋山でぶつかった。頼朝軍の背後には伊藤祐親の軍三百騎も迫っていた。 頼朝軍の惨敗である。 命からがら戦線から離脱した頼朝は真鶴半島から船で安房(千葉県)に逃げ、千葉常胤、上総介広常らを味方につけて再起をはかった。 力をつけて上総から下総(千葉県)、武蔵(東京)へと兵を進めて十一月に源氏にゆかりの深い鎌倉(神奈川県鎌倉市)に入ってここを拠点と定めた。 富士川の合戦で戦わずして平維盛の軍勢を敗走させたあとは上洛もせず東国の地歩を固め、頼朝はただちに侍所(御家人の統制、軍事、司法をつかさどる)を設置して坂東を制圧し、以後武家政権を樹立するために急激に冷徹な政治家に変貌してゆくのである。 木曾義仲、源義経、範頼や精強な坂東武者の活躍によって平氏は京都から一ノ谷(兵庫県神戸市)、屋島(香川県高松市)、壇ノ浦(山口県下関)と落ちて滅亡し、たちまちのうちに源氏の時代が到来した。 が、義仲は後白河法皇と対立して義経、範頼に討たれ、義経もやがては奥州・平泉の藤原氏とともに滅び、範頼も消されてゆく。 頼朝はやがて上洛して後白河法皇に近づいて政子との間に生まれた長女・大姫を後鳥羽天皇に入内させようと面策しはじめる。 後白河法皇が建久三年(1192)に亡くなったあとも法皇の寵愛を受けていた丹後局や源通親たちと手を組んで大姫入内を面策しつづけた。 この計画は建久八年(1197)に大姫が病死したことで終わってしまったが、次に頼朝は次女・三幡の入内運動を展開してこれは成功するかに見えた。三幡は「女御」の称号をあたえられて入内を待つばかりというところまで話が進んだ。 が、入内を見ることはなく頼朝は建久十年(1199)正月十三日に五十三歳で死んだ。 前の年の末に稲毛重成が妻(政子の妹)の追善供養のために相模川に架けた橋の渡り初めを行った帰路、落馬したのが原因である。 脳出血であったといわれているが、そのために落馬したのか、落馬したから脳出血したのかわからない。 そしてその五ヶ月後に入内を期待された三幡も死んだ。 頼朝は武家の棟梁らしく弓に秀れていた。 政治状況に対する判断も早く的確であった。 独裁者がそなえなければならない陰険な狡猾さえも備え、官僚体制を整える能力もあった。それだけでなく貴族的な風貌で「容貌花美、景体優美」(『源平盛衰記』)であり「威勢厳粛」(『玉葉』)であったといわれる。 日本最初の武士政権を樹立するにふさわしい見事な生涯であったといわなければならない。 |
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