那須与一
(なすのよいち)
生没年未祥
父・那須資隆(高)

  「与一は」は通称で本名は宗隆あるいは宗高という。

  下野国(栃木県)那須郡の在地領主で背の低い男だったが弓の名手といわれていた。

 元暦二年(1158)二月十八日、源義経に従って讃岐国・屋島(香川県高松市)に出撃した。

 一ノ谷の合戦で敗れはしたが平氏は瀬戸内海の水軍を掌握していて再起してくる可能性があり侮ることができなっかた。
 
 義経は海からの攻撃に備えていた平氏の裏をかいて陸伝いに屋島を攻めて平氏は再び海上に逃れた。

 逃れただけでなく年のころ十八、九の女房を乗せて棹のさきに日の丸を描いた扇を立てた小舟があらわれて陸にいた源氏軍を招いた。

 義経は弓に長じた与一にあの扇を射落とせ命じる。

 『平家物語』(巻十一)の名場面である。

 「与一目をふさいで『南無八幡菩薩、我国の神明、日光権現宇都宮、那須のゆぜん大明神、願わくばあの扇のまンなかゐさせたばせ給へ。是をそんずる者ならば(失敗したら)、弓きりお(折)り自害して、人に二たび面をむかふべからず』(中略)祈念して、目を見ひらひたれば、風もすこし吹よはり、扇もよげにそなッたりける。与一鏑(弓)をとッてつがひ、よッぴいてひやうとはな(放)つ。小兵いふぢやう(体は小さいが)十二束三ぶせ、弓はつよし、浦ひゞく程(鏑矢が)ながなりして(長く鳴って)、あやまたず扇のかなめぎわ一寸ばかりをいて(射っ)、ひィふつとぞゐきッ(射切っ)たる。」

 実にスローモーションの映像風に描かれていて面白い。

 お互いの運命を占おうとするにしても戦争のさなかにこのような射的のゲームをのんびりと楽しんだ日本人のあり方や美学は文化人類額のテーマになりそうだ。

 与一はこれで一躍源氏軍のヒーローになり源平の乱が終わると褒美として丹波(兵庫県)や信濃(長野県)に五つの荘園をあたえられた。

 那須氏は上下那須二軍の支配者として天正十八年(1590)豊臣秀吉が侵略してくるまでこの地の有力豪族として勢力を誇った。

 那須温泉神社は矢をいる時に祈願した神社であり与一は大きな社殿を建てて神の恩に報いたと伝えられている。

 のちに髪をおろして出家し京に行って伏見・即成院で没したといわれるが一本の矢で歴史に残った珍しい人生を生きた人物である。



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