静御前 (しずかごぜん) 生没年未祥 母・磯弾師 |
静御前を生んだ母、磯弾師は後白河法皇の近臣で平清盛と組んで平治の乱で敗北した藤原信西(通称)から水干、立烏帽子、白鞘刀を腰にたし男舞を教えられ、これを女の静御前に伝えた「白拍子」の元祖である。 源頼朝との関係が悪化した義経が都落ちしたのは文治元年(1185)十一月、壇ノ浦の合戦から八ヶ月後のことである。 このとき静御前は十一月六日に大物ヶ浦(尼崎)から義経とともに船出したが海が時化て船が漂流したり沈没したりしたため別れ別れになってしまった。 静御前は大阪・天王寺まで義経に同行し、三日後に義経が潜伏している吉野山まで追いかけて行ってそこで五日間を過ごした。 しかし、吉野山にも義経を捕らえようとしる僧がいたから義経は山伏に姿を変えて行方をくらました。 静御前は義経から多くの金銀をもらって下男に送られて京へもどることになった。 ところが下男たちは静御前から金銀を奪って雪山のなかに置き去りにした。 十七日の夜、亥の刻(十時)に静御前は道に迷って吉野山の藤尾坂を蔵王堂まで下がって僧兵たちに発見されてとらえられ京都に駐留していた北条時政に渡された(『源義経」渡辺保)。 そのころ義経は十津川に逃亡していたのだったが、行方を取り調べるために静御前は母・磯弾師とともに鎌倉へ送られることになった。 文治二年(1186)三月一日。 静御前と磯弾師は鎌倉に着いた。 義経を逃がした僧の名はとごう尋問されたが「忘れた」と答えて懸命に義経をかばった。 そして四月八日。 頼朝と妻・政子は鶴岡八幡宮に参詣して静御前に舞を所望した。 鶴岡八幡宮の回廊で静御前は舞った。 工藤祐経が鼓、畠山重忠が銅拍子をとった。 よし野山みねのしら雪ふみ分けて いりにし人のあとぞ恋しき しづやしづしづのをだまきくり返し 昔を今になすよしもがな この歌に「上下ミナ興感ヲ催ス」(『吾妻鏡』)という。心打たれたのである。 が頼朝は怒った。 自分の前をもはばからないので反逆者・義経を慕って別れの歌を歌うとは、なにごとだというわけだが、ここは政子がとりなして褒美をもらうことになったという。 このとき静御前は妊娠していた。 七月二十九日にダ男児を出産した。 静御前は赤子を渡すまいとしたが磯弾師が渡してしまった。 静御前は助命を乞たが頼朝はゆるさなかった。赤子は由比ヶ浜で首を斬られたとも海に沈められたともいう。 京へ帰る静母子をあわれんで政子と長女・大姫は数々の贈り物をあたえた。以後静母子の消息は不明である。 |
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