平清盛
(たいらのきよもり)
元永元年(1118)〜養和元年(1181)
父・平忠盛
母・祇園の女御の妹

 平家の棟梁・平忠盛の長男が清盛である。

 母は『平家物語』によれば白川法皇の寵愛を受けていた祇園の女御であるという。女御が懐妊したのちに忠盛に下賜して生まれたのが清盛だというが、実の母は女御の妹で白河法皇の落胤であった。

 清盛は平家の御曹司として育てられ十二歳で元服すると間もなく従五位下・左兵衛佐に任じられた。

 保延元年(1135)八月、忠盛が瀬戸内海の海賊を退治して賞せられたときは清盛も十八歳で従四位下、安芸守に叙された。さらに二十歳で熊野本宮(和歌山県)を造営して肥後守に任じられた。武士の子としては異例の出世でこの官位昇進の早さも後白河法皇の落胤説の傍証となっている。

 仁平三年(1152)に忠盛が亡くなると清盛は平氏の棟梁となった。

 父の死によって清盛には莫大な遺産が残された。左大臣・藤原頼長が「富は巨万を累ぬ奴僕は国に満ち武威人にすぐ」といったほどで平家の総帥としての地位は最初かなゆるぎない地盤の上に立っていた。

 保元元年(1156)保元の乱が勃発

 これは鳥羽法皇と崇徳天皇の不倫がらみの不和対立(崇徳天皇は鳥羽法皇の実子ではなく白河法皇の子であった)が原因だった。

 鳥羽法皇は最も愛していた美徳門院が生んだ皇子をわずか三ヶ月で皇太子とし、その二年後に崇徳上皇を退位させて皇太子を天皇座に据えた。近衛天皇である。

 さらに近衛天皇が十七歳で亡くなったあと、鳥羽法皇は崇徳天皇の皇子・重仁親王をさしおいて崇徳の弟を天皇にしてしまった。これが後白河天皇である。

 こうした皇室内部の抗争に加えて藤原家内部も分裂していた。

 関白だった藤原忠実は長男・忠通よりも次男・忠長を重視し忠通が関白を忠長に譲らなかったため忠通の屋敷を襲って氏長者(一族の長老)の身分を奪いとった。ところが後白河法皇は忠通を信任し、鳥羽法皇も頼長を遠ざけたので忠通は氏長者の地位を取り返し、頼長は不満と失意に苦しむことになった。

 このような背景の中で鳥羽上皇が亡くなり、後白河天皇は遺詔であると称して崇徳上皇の弔問を拒んだ。

 そこで崇徳上皇は頼長と組んで源為義・為朝、平忠正らを召集してクーデターを計画した。後白河天皇はこの計画を察知するやただちに清盛や源義朝を召集し夜襲をかけて勝敗を決した。

 敗北した崇徳上皇は讃岐(香川県)に流罪となり頼長は流れ矢に当たって死んだ。源為義や平忠正は斬首されたが、このとき弘仁(810〜824)以降廃止されていた死刑が復活し穏やかな平安時代が終わって戦乱と武士が活躍する時代がはじまったのである。

 功によって清盛は正四位・播磨守・太宰大弐となり、藤原進西と手を組んで政界にその勢力をひろげていった。

 一方、保元の乱で戦功は自分の方がはるかにあったと考えていた源義朝は自分が左馬頭にしかなれなかったことに不満と反撥の気持ちを抱いていた。

 これが三年後の平治の乱の誘因となったのである。

 平治元年(1159)十二月九日、清盛が熊野詣に出ている隙を突いて義朝は近衛大将になれなかった院別当・藤原信頼と組んでクーデターに踏み切って信西を倒し、後白河法皇と二条天皇を味方につけて政権を奪おうとした。

 みずから大臣・大将となった信頼は義朝を播磨守に任じたが、そのあとの詰めが甘く帰京した清盛に法皇と天皇を奪われてしまう。

 二十六日には清盛は弟・頼盛や長男・重盛の軍に大内裏を攻撃させ、対する義朝軍は清盛の拠点地・六波羅に進撃したが、大内守護・源頼政が裏切って義朝側は惨敗し、信頼は捕らえられ六条河原で首を落とされた。義朝は東国に逃げようとするが、途中で謀殺され、頼朝は伊豆に流された。

 かくして清盛の天下となり、姻戚関係を利用して出世を重ねて仁安二年(1167)五十歳のときには従一位・太政大臣まで昇りつめた。

 清盛は祖父・正盛が屋敷を構えた鴨川の東一帯の六波羅を拠点とした。一町四方だった屋敷は清盛の位が上がってゆくにつれて二十町四方にひろがり、家は平氏一族で百七十軒、親類、郎党を加えると五千二百軒余に及んだ。

 一族の知行地が全国に半数以上の三十余国、荘園五百余ヵ所、一門の殿上人は五十人近くにのぼった。

 十五歳前後の少年を三百名ほど集めて髪をおかっぱに切って「禿童」という赤い直垂を着た密偵を京都市中に放って秘密警察として働かせて情報を集めて治安を守り、加えて妻・時子の妹・滋子が後白河法皇の御宮に入って高倉天皇を生み、娘の徳子が高倉天皇の子・言仁親王を生んでいたから清盛も立場は盤石になっていた。

 が、やがて清盛は後白河法皇にうとまれるようになり、平家打倒の気運が高まって鹿ヶ谷のクーデターの謀議が発覚してこれを弾圧したり、所領問題で法皇を幽閉したりする事件が起こるなど反・平氏の力が動きはじめた。

 治承四年(1180)言仁親王が即位して安徳天皇になると、清盛は外祖父としてさらなる力を得たが同年四月には以仁王(後白河法皇の第二皇子)の平家追討の令旨が下った。

 六月に福原(神戸)に遷都したが八月には頼朝が伊豆で挙兵し、以後平家は衰滅の一途をたどる。

 この翌年の治承五年(1181)閏二月四日に清盛は熱病を発して「あた(熱い)、あた」といいながら九条河原口にあった平盛国の邸宅で死んだ。



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