金売り吉次
(かねうりきちじ)
生没年未祥
父母未祥
 
 平治のの乱あと源義経は京都・鞍馬寺(京都市左京区鞍馬本町)に入って「遮那王」と名乗って仏道修行にはげんだ。

 やがて義経は自分が源氏の嫡流であることを意識しはじめて兵法書『六韜三略』を読んだり剣を学んだりしたと伝えられている。

 十六歳になった時に義経は金売り吉次に出会った。

 義経の運命を決定づけた人物でこの吉次が義経を奥州・平泉へ連れていった。

 吉次が義経の身分を知って「御曹司はこのままでは危ういゆえ奥州へ下向なさるべし」と熱く誘った(『義経記』)ともいうし、義経自身が吉次に「この身を、いかようせんとも奥州のゆゆしき人(高貴な人)のもとに、連れて行かんことを望む」(『平治物語』)とみずからを売り込んだようにもいわれる。

 なぜ奥州へ行くことになったのかは義経の継父・藤原長成の従兄弟・基成が後白河法皇の側近で女を藤原秀衡に嫁がせていたからその縁をたよったのだと思われる。

 しかし「義経の奥州下り」を演出した吉次についてはよくわからない。

 「三条の大福長者(大富豪)あり、名をば吉次高信とぞ申しける。毎年、奥州に下る金商人なりける」(『義経記』)という。

 吉次は商人らしく義経を平泉へ連れていけば金になる可能性があると考えたと思うのが自然だろう。

 このころ奥州の砂金の価値が急激にあがって黄金を売買する商人が東海道や東山道を隊列を組んで往き来していた。

 盗賊や追い剥ぎや山賊のたぐいが横行していたから武芸に秀れた用心棒を同行させていた。

 義経はそうした隊列の一人として目立たない格好で東北へ向かったと思われる。

 近江・守山宿と武佐宿の間にある合宿・鏡宿で元服として「遮那王」から「九郎義経」となった。

 そして義経を首尾よく奥州まで連れて行った吉次は藤原秀衡から螺鈿の唐櫃と砂金、秀衡の嫡子・泰衡から鹿皮百枚、鷲の羽百尻、白い鞍を置いた馬三百頭、次男・忠衡からもこれに劣らぬ褒美をもらった。

 これで謎の豪商・吉次は歴史から姿を消してしまうが「吉次すなわち、義経の郎党・堀弥太郎」であるともいう。

 民俗学の柳田国男説には「九州の方では言はぬことだが、東部日本に在っては炭焼きから長者と為った炭焼籐太の子が吉次であったと伝えて居る。即ち義経其他に於て、九郎判官(義経)と同行して平泉の秀衡の処へ案内したと云う橘次信高のことである。金売吉次が父の発見した黄金を洗って、京と奥州の間を往復して居た」とある。




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