常陸坊海尊
(ひたちぼうかいそん)
生没年未祥
 
 海尊は「快賢」「荒尊」とも呼ばれていた。

 義経の家来になる前は比叡山の僧であった(『源平盛衰記』)とも大津・三井寺(園城寺)の僧であった(『義経記』)ともいう。

 義経は都落ちして大物ヶ浦(尼崎)から船で脱出しようとしたが海尊は弁慶とともにそのときに活躍し、奥州・平泉までともに落ちのびていった。

 ただし、義経や弁慶が最期を迎えた衣川の戦いのとき海尊は現場にいなかった。

 「常陸坊(海尊)を初としてのこり十一人のものども、今朝より近きあたりの山寺を拝みに出でけるが、その儘帰らずして失せにけり」(『義経記』)

 敵の包囲網がひしひしと迫ってきているときこその緊迫感を感じることなく海尊以下十一名もの者たちがいなくなるということは事前に決戦の日限を知ってあらかじめ相談していた者たちが集団脱走、敵前逃亡したのである。「山寺を拝みに出でける」とは物見遊山風でなんとも間のびしたような理由をつけたものだがそのあたりが海尊の賢さ狡さ巧妙さである。義経や弁慶たちは皆死んでしまったがそのあと海尊はどうなったのか。

 「海尊一人は軍勢の中を遁れて富士山に登りて身を隠し、食に飢えて為方のなかりしに(どうすることもできなくて)浅間大菩薩に帰依して、守を祈りしに、岩の洞より飴の如くなるもの湧き出たるを、嘗めて試むるに味わひ甘露のごとし」(『狗張子』)

 洞窟に湧き出している「飴の如くなる」ものを食べてるうちに身体は健やかに快くなって朝には太陽の精を吸って霞にこもり、ついには仙人になったという。

 鎌倉、室町、戦国時代を経て家康の元和年間(1615〜1624)になってから箱根(神奈川県)の山中に短斎坊という百余歳の木食(木の実を食べて修行する僧)がいた。

 あるとき年老いた僧がこの短斎坊をたずねてきた。腰には藤のつるをまとい、顔が黒く眼が光り人間とは思われない。松の葉を食べてほとんど口もきかない。

 ある日の夕暮れ、火をつけようとすると腰の巾着から石を出したところがそれが鞍馬の名石で「判官殿(義経)に、もろふた」という。おどろいて名を問うと「我こそ常陸坊海尊」とこたえた。

 そこで弁慶は色黒く背の高い男かと聞くと「またなき美僧」とのこと。

 「義経は丸顔で鼻低く、向歯ぬけて、やぶにらみにて、ちゞみがしら(縮れっ毛)、横ふとって(デブで)男ぶりはひとつもとりへ(取柄)なし」などと語った。

 このような海尊伝説は大杉神社(茨城県稲敷郡桜川村)や青麻神社(宮崎県塩釜市岩切)をはじめ東日本に広く分布している。




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